
2024年1月29日、イスラエル軍の攻撃が激化するパレスチナ・ガザ地区で、7人の市民が乗る車両が銃撃された。親族の遺体に囲まれながら一人生き残った6歳の少女ヒンド・ラジャブは、人道支援組織「パレスチナ赤新月社」に電話で必死に助けを求めたが、12日後に遺体で発見された。この実際の通話音声を軸に事件を再現した映画『ヒンド・ラジャブの声』が、9月4日から順次全国で公開される。第82回ヴェネチア国際映画祭で銀獅子賞を含む8冠を獲得し、第98回アカデミー賞国際長編映画賞などにノミネートされた話題作だ。
世界が“傍観”した6歳の声
事件当日、赤新月社の緊急通報センターに、ガザ北部で避難中の親族が銃撃されたとの通報が入る。安否確認のため車両への連絡を続けたところ、親族との通話が銃声とともに途絶え、その後、車内で唯一生き残っていたヒンドとつながった。

救急車はヒンドのいる場所からわずか8分の距離にいた。しかし、イスラエル軍が占領するガザ地区では、安全なルートの確保なしに出動すれば救急車ごと攻撃される危険がある。赤新月社のスタッフは電話をつなぎ続けながら、赤十字や保健省を経由してルート確保の調整に奔走したが、許可はなかなか下りない。監督が後に提供を受けた約70分の通話記録には、ヒンドの助けを求める声や銃声が残されていた。車両には300発を超える弾痕が確認され、救出に向かった救急隊員2人も殺害された。
映画はこの事件を、赤新月社に保管されていた実際の通話記録と現地の映像を用いながら、パレスチナ人俳優による再現ドラマと融合させる手法で描いた。
母親の言葉から始まった制作
監督・脚本を手がけたのは、チュニジア出身のカウテール・ベン・ハニア氏。『皮膚を売った男』(2020年)、『Four Daughters フォー・ドーターズ』(2023年)など、アカデミー賞候補作を世に出してきた。プロデューサーには、ハニア監督と複数の作品でタッグを組むナディム・シェイクルーハ氏、『ナワリヌイ』(2022年)で第95回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞したオデッサ・レイ氏、そしてジョナサン・グレイザー監督『関心領域』(2023年)を手がけたジェームズ・ウィルソン氏が名を連ねる。
ハニア監督がヒンドの声を初めて聞いたのは、別作品の撮影準備に入ろうとしていた時期だった。8月18日に都内で開かれた先行上映会の舞台挨拶で、監督はこう振り返った。
「SNSで赤新月社が上げていた短いクリップを目にしました。聞いた後、日々の生活に戻ることができず、ずっと彼女の声が頭に残っていました。大きな悲しみと怒りを同時に感じ、映画を通じて彼女の声を聞いてもらうことはできるのではないかと思ったのです」

制作を決意したハニア監督がまず行ったのは、ヒンドの母親への連絡だった。「この映画を作っていいのか、それを決める唯一の方が彼女だと思いました」。監督に対し、母親はこう語ったという。「明日自分が死んでしまったら、娘の物語は誰にも語られずに終わってしまう。でもあなたが電話をくれたことで、ガザの外に娘の話を伝えてくれる人がいると知ることができた。それだけで幸せです」。そこから全てが始まった。
監督は赤新月社から70分に及ぶ通話記録の提供を受け、スタッフ一人ひとりからあの日の行動と感情を聞き取った。証言をもとに脚本を執筆し、当事者本人からフィードバックを受け、編集後にも再び確認を仰いだ。徹底して事実に即しながら、当事者の記憶に敬意を払う形で作品を構築していった。
映画人たちの連帯が作品を守った
完成した作品を世界に届けるためには、大きな後ろ盾が必要だった。ブラッド・ピット、ホアキン・フェニックス、ルーニー・マーラ、アルフォンソ・キュアロン、ジョナサン・グレイザー、マイケル・ムーア、スパイク・リーら、そうそうたる映画人がエグゼクティブ・プロデューサーとして名を連ねている。ハニア監督はインタビューでその経緯をこう説明している。
「スター俳優が出演しているわけでもなく、アラビア語の映画で字幕も必要です。映画市場にとっては手放しで歓迎される作品ではありません。それでもヒンドの声をより広い層に届けたかった」。著名な映画人たちの参加は、政治的な圧力から作品を守り、世界に届けるための「連帯」の表明だった。

事実面での証拠も、すでにそろっていた。ロンドンを拠点とする調査機関フォレンジック・アーキテクチャーやワシントン・ポストの調査報道に加え、2026年6月18日には国連人権理事会の独立国際調査委員会が報告書を公表。ヒンドの殺害を「イスラエルによるパレスチナの子どもたちへの意図的攻撃」の代表例に挙げている。
こうした状況下で、イスラエル国防軍は8月19日、車両への発砲を初めて認め、刑事捜査の開始を発表した。ハニア監督は21日付の声明で「この発表は煙幕に過ぎない」と批判。「2年以上もの間、証拠は存在していた。独立した調査、衛星画像、弾道分析。そして何よりも決定的な証拠が、ヒンド自身の声だ」と指摘し、「いま必要なのは広報活動ではなく、独立した機関による正義だ」と訴えた。ガザでは2025年10月に発効した停戦後もイスラエル軍による攻撃が続いており、犠牲者は増え続けている。ヒンドに起きた悲劇は、過去の一事件ではない。
「観て終わり」にしないために
8月18日の先行上映会の後、ハニア監督とシェイクルーハ氏が登壇した。ハニア監督は開口一番、来場者にこう感謝を告げた。「足を運んでくださったこと、耳を傾けてくださったこと、そして何が起きたのか、その目撃者になってくださったこと。本当にありがとうございます」。サプライズゲストとして駆けつけた俳優・監督の古舘寛治氏は「映画というカテゴリーに収まらないものを見た。現代の表現者ができる最高の表現をやり遂げられた」と敬意を表した。

ハニア監督は日本の観客に向けて、こう語りかけた。「歴史を振り返っても、地域や国境を超えて多くの人の心に触れるような傷が存在しています。日本の場合、それはおそらく広島や長崎になるでしょう。その傷は世界中の人々の心に触れました。今ガザで起きていることも、それと同じです」
そして最後にこう締めくくった。
「この作品はただ涙を流して終わるものではなく、コール・トゥ・アクション(行動への呼びかけ)なのです。映画はすぐに世界を変えられなくとも、人々の物事の見方を変えることはできます。それが最初のステップです」
| 『ヒンド・ラジャブの声』(配給:スターキャットアルバトロス・フィルム) 9月4日(金)より、新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座ほか全国公開 https://hindrajabjp.com/ |
眞崎 裕史 (まっさき・ひろし)
サステナブル・ブランド ジャパン編集局 デスク・記者
地方紙記者として12年間、地域の話題などを取材。フリーランスのライター・編集者を経て、2025年春からサステナブル・ブランド ジャパン編集局に所属。「誰もが生きやすい社会へ」のテーマを胸に、幅広く取材活動を行う。











