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ドイツの地方発、都市哲学に見る持続可能性

【高松平藏コラム】第1回 ドイツでSDGsに「今さら感」を覚える理由

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SB-J コラムニスト・高松 平藏

ドイツに住む筆者のSDGsにまつわる個人的体験を述べる。SDGsという字面を初めて見たのがドイツ語ではなく日本語のWebサイト。ほどなくして日本の知人から「ドイツはSDGsがきっと進んでいるのでしょうね」と言われることがあった。

その後、2017年にシンガーソングライターのピコ太郎氏が、外務省から「SDGs推進大使」に任命され話題になった。この頃一時帰国すると、首長や経営者らの胸にはSDGsのバッジが光っており、あぜんとした。さらにこの2、3年ではテレビの情報番組で「こんなところにもSDGsが!」というような特集が組まれたり、例えば電通の調査でも認知度は9割を超えているという。うろ覚えなのだが、昨年の日本のドラマでは登場人物(確かムロツヨシさん)が「SDG〜s!」と脈絡なく叫ぶシーンがあり、仰天した。普及というより、むしろ「大衆化」という言葉がよぎる。ドイツではちょっと考えられない状況だ。

言うまでもなく、SDGsは国連サミットで採択された国際目標だ。そのためドイツでも大企業では扱っているケースもある。また地方自治体への促進も行われている。しかしながらドイツでSDGsを知る人はほとんどいない。昨年、10年ぶりに再会したドイツの友人がSDGsを知っていて驚いたが、その理由を尋ねたところ、「数年前に転職したのが日本企業。オフィスにポスターが貼ってあるんだよね」と言って肩をすくめた。

■外国人目線で覚えたSDGsの「今さら感」

一方、外国人目線でドイツを見ると、SDGsが広がらないのも当然とも思えた。というのも内容的に言えば欧州で積み重ねられてきた持続可能性の概念と重複が見られ、「今さら感」があるからだ。

例えば欧州市場でビジネスを展開されている読者諸氏なら、EUには環境・持続可能性に関わるさまざまな規制があることをご存知だろう。つまり実務の中に持続可能性の要素を組み込むことになる。またこの手の厳格なルール作りには、グローバルプレーヤーとしてのEUの優位性を高めるためといった見方もあるが、これに沿えば、持続可能性をソフトパワーに転換しており、存在感を高める政治的要素にすらなっていることを意味する。

そして重要なのはSDGsの基盤になっている価値観である。SDGsのテキスト(外務省による仮訳)を読むと、人権、自由、平等などいかにも欧州的な価値観が複数並ぶ。これらについては本連載でもおいおい触れていくが、今回はその代表格である「人間の尊厳」を見てみよう。

この言葉はドイツの憲法にあたる基本法の第1条に「人間の尊厳は不可侵である」と書かれている。それは性別・出自・宗教・年齢に関わらず、相互に敬意を持つことである。人を「モノ」のような扱いをしたときに、それは尊厳を冒したことになる。

他方、「人間の尊厳」は日本社会から見て、なじみのない難しそうな言葉だ。が、無理もない。というのもキリスト教の影響を受けたヨーロッパの精神世界で生まれたものだからだ。そしてさまざまな哲学者も論じている。イマヌエル・カントなどはその代表格で「道徳形而上学の基礎づけ」で人間の尊厳とは、他者への敬意、生存の権利、平等といったことを示している。

キリスト教やカントが登場したとたん、頭がフリーズしそうになるが、ドイツ社会を見ると、思想の歴史的発展を通じて人々の血肉になっている。つまりカントを知らない人にとっても「当たり前」の価値観になっているのだ。

■地方都市にもそれは息づいている

さて、本連載はドイツの地方都市から見たサステナビリティについて考えるものである。筆者が住むエアランゲン市(バイエルン州、人口約11万人)を中心に具体的な取り組みを参照しつつ、その奥にあるサステナビリティにつながる都市哲学とでもいうものを見ていく。

今回は人間の尊厳に触れたが、欧州において「人々の血肉」になっているということは、「都市の血肉」にもなっているということである。ポイントは人間の尊厳が普遍性のある価値観として扱われている点だ。この普遍性というのが重要なのだ。

エアランゲン市を見ると、「人間の尊厳」をテーマにした展覧会が行われることもある。またデモも多い。例えばエアランゲン市外はおろか、ドイツ国外で「人間の尊厳」が踏みにじられるような出来事があると敏感に反応する。場合によっては、そういう出来事が起こった当日の夕方や、翌日に市街でデモが行われる。人間の尊厳は普遍的価値だからこそ、行動するのだ。

普遍性はデモの参加者からもうかがえる。
例えば2015年12月に市役所前の広場で「人間の尊厳=不可侵!」と題するデモが行われた。当時、シリアやイラクなどの戦争・危機地帯からの難民流入は記憶している方も多いだろう。これを受け入れる政府の難民政策に極右グループなどが反対した。それに対する抗議がこのデモである。約500人が集まったが、当時のフライヤーを見ると、「呼びかけ人」は市内の政治・社会的組織の数が50余り。市長に始まり、エアランゲン・ニュルンベルク大学の学長、市内の地区政党、青少年の団体、電力・上下水道・バスなどのインフラを供給する公益会社、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教など市内の各宗教団体、社会文化センター、労働組合、市内のYMCA、平和運動団体、社会扶助関係の協会などの名前が並ぶ。

これらの人や組織の立場・分野は異なる。それにしても人間の尊厳は共通の、普遍性のある価値観として、支持されていると見ることができるだろう。

外国人排除などの考えを持つ極右政党が市街中心地でブースを展開(写真左上)。それに対して「人間の尊厳=不可侵!」と書いた横断幕で抗議。コロナ禍の初期で、集会などが自主的に取りやめになる中、少人数で人間の尊厳の強い確認が町の中で行われた(2020年3月14日、ドイツ・エアランゲン市、筆者撮影)

余談ながら「デモ」と聞くと、大音量のスピーカーを用いて、政府に反対を行うようなものを想像する方もいらっしゃるかもしれない。しかし通常、ドイツの街で行われるデモは、騒がしいものではなく、同じ意見を持つ者が集まって、街の中で皆にシェアする行為と見るのが妥当だ。

■「普遍性」というSDGsに組み込まれた欧州的性格

人間の尊厳が人々の、都市の、血肉になっていること。そしてこの価値観には普遍性を帯びていることに触れた。この普遍性は、「全世界に必要な価値観だ」というヨーロッパ哲学の押し付けがましさと解釈する人もいよう。

もっともSDGsは欧州の価値観から作られたというわけではない。しかし、その基底にある「人間の尊厳」が、極めて欧州的だからこそ、全世界の国々の共通の目標とすることに整合性が出てくると言えるだろう。

そして、先に見たように、ドイツ基本法にもいの一番に書かれているし、EUの基本的権利憲章でも同様だ。換言すれば、SDGsを本当に理解するには、人間の尊厳など、欧州で発展した価値観を学ぶ必要がある。それがなければ、ただの17枚のカード遊びになってしまう可能性すらあると思う。

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高松 平藏
高松 平藏 (たかまつ・へいぞう)

ドイツ在住ジャーナリスト

ドイツの地方都市エアランゲン市(バイエルン州)および周辺地域で定点観測的な取材を行い、日独の生活習慣や社会システムの比較をベースに地域社会のビジョンを探るような視点で執筆している。日本の大学や自治体などでの講義・講演活動も多い。またエアランゲン市内での研修プログラムを主宰している。
著書に『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか―質を高めるメカニズム』(学芸出版)をはじめ、スポーツで都市社会がどのように作られていくかに着目した「ドイツの学校には なぜ 『部活』 がないのか―非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房)など多数。

高松平藏のウェブサイト「インターローカルジャーナル」

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