
20代前半の頃、私は自分が感じていることを書き留める小さなブログを運営していました。政治のこと、人生で学んだこと、大人になるとはどういうことか──。そんなテーマをつづり、ささやかですが熱心に読んでくれる人たちがいました。書くことが大好きだった私は、その時間を心から楽しんでいたのです。そんなある日、ある企業の方から連絡がありました。彼は私の文章を読み、そこにある「考え方」に価値を感じたと言うのです。面接に招かれ、そこから新しいキャリアの機会が開けていきました。
この出来事は今でも強く記憶に残っています。人生で初めて、「成果」よりも「人としての私」を評価してもらえた瞬間でした。そこには、組織が“何ができるか”だけでなく“どんな人間なのか”を見ようとしたとき、より深い信頼とリーダーシップが生まれるというシンプルな真理がありました。しかし残念ながら、多くの職場では逆のことばかりが起きています。そこに属する人が、本来の自分を抑え、硬くなり、声を小さくし、「型」に合わせて自分を作り替えてしまうのです。その型が、そもそも自分のために作られたものではないにもかかわらず……。
“リーダーらしく振る舞う”ことの深刻な代償
カリブ、ヨーロッパ、そして日本。私はこれまでまったく異なる文化圏で働いてきましたが、どこに行っても共通して存在するものがあります。それは「いかにもリーダーらしい人」の暗黙のイメージです。冷静、統制、合理的、断定的、決断力──。これらは必ずしも男性の特性ではありませんが、多くの組織は今でも無意識のうちに“男性的”とされる振る舞いをプロフェッショナルの基準として扱っています。この基準が前提になると、それ以外のスタイルは「型破り」あるいは「プロらしくない」と見なされてしまいます。
そうした声は、たいてい良かれと思ってのものです。「もう少し中立的に話したほうが良いかもしれない」「質問が多過ぎると感じられるかもしれない」「感情的に受け取られないよう気を付けて」。しかし、そのどれもが本質的には同じメッセージを伝えています──「この場所にいたいなら、あなた自身を調整しなさい」と。やがてその調整は癖となり、本来のリーダーシップを習得するのではなく、人は“リーダーらしく振る舞う”ようになります。

私自身もそうでした。カリブでは感情を表現することが自然でした。ヨーロッパでは明快さと効率性が重視されました。日本では調和を保つための繊細な配慮が求められました。もちろん、文化的な文脈に合わせて振る舞いを調整すること自体は健全です。しかし多くの場合、行き過ぎてしまうのです。行動だけでなく、アイデンティティそのものを調整してしまう。声のトーンが変わり、質問が減り、かつて自分を導いてくれた感情を読み取る力が奥へ押し込まれてしまう。その代償は静かですが深刻です。
影響を感じ取れないリーダーは、持続的にリードできない
共感が弱まると、リーダーは自分の決断が人の生活にどのように影響するかが見えなくなります。好奇心が抑えられると、改善のチャンスが見えなくなります。人々が場に合わせて自分を変え続けるほど、心理的安全性は失われていきます。調整によって効率化された組織は、一見うまく回っているように見えても、持続性としなやかさを失ってしまうのです。
ハーバード大学のエイミー・エドモンドソン教授の研究によれば、心理的安全性が高く、自由に意見を言えるチームは、沈黙や自己検閲が常態化しているチームに比べて一貫して高い成果を出すことが示されています。
好奇心は、これまでの人生とキャリアを通じて、私の強みであると同時に、時に対立の種にもなってきました。多くの企業が「好奇心は大切だ」と掲げていますが、その結果がもたらすものは歓迎されないことが多いのです。質問は心地よさを揺るがし、見えていなかったものを照らし、説明責任を求めます。
私自身、「質問が多過ぎる」と指摘されたことが何度もあります。しかし好奇心は嗜好(しこう)ではなく戦略的な力です。品質を高め、意思決定を鋭くし、イノベーションを生み出す原動力でもあります。どんな組織でも、システムは「なぜこうなっているのか」という問いによってしか変わりません。好奇心が抑圧されると、声が消えるだけでなく、組織の成長そのものが止まってしまいます。

同じことは「共感」にも当てはまります。いまだに一部の文化では、共感は“感情的”あるいは“プロフェッショナルではない”と位置付けられ、戦略や業績の後ろに追いやられがちです。しかし、実際には共感こそが組織運営の基盤です。不確実性への反応を読み取る力、ストレスの初期兆候を察知する力、文化的な違いを越えて橋をかける力、そして意思決定の影響を人の生活レベルで捉える力──これらはすべて共感から生まれます。組織において共感は贅沢(ぜいたく)品ではなく、協働を支える仕組みそのものです。単純に言えば、「影響を感じ取れないリーダーは、持続的にはリードできない」ということです。
リーダーが本来の自分でいることは可能性を広げる
長い間、私は自分のユニークさ──ベネズエラの出自、カリブとヨーロッパで育った背景、好奇心、感受性──を慎重に扱うべきものだと考えていました。しかし後になって、それらは単なる特性ではなく「責任」なのだと気付きました。型にはまらないリーダー、質問をするリーダー、共感を大切にするリーダー、ありのままの自分でいるリーダーの姿を見ると、人は「自分もこういうリーダーになれるかもしれない」と思えるからです。本来の自分でいることは可能性を広げ、「自己調整」は可能性を狭めるのです。
マッキンゼーのDiversity Winsをはじめとする複数の研究でも、多様で“本物の声”を持ったリーダーが存在する企業は、イノベーションに優れ、財務的にも強くなることが示されています。
どうすれば自分を見失わずにリーダーシップを発揮できるのか
ただもちろん、文化的な感受性は重要です。私たちは状況に合わせて柔軟に振る舞います。しかしその調整には限界があり、行き過ぎると自分を見失ってしまうのです。
では、どうすれば自分を見失わずにリーダーシップを発揮できるのでしょうか。それは、構造を拒否することでも、文化を無視することでもありません。まして全員が同じように声を上げられると期待するのでもありません。私たちにできることは、“調整”ではなく“整合性”に問いを向けること、すなわち自分に問いかけることです。
具体的には、次のような、いくつかの問いが、内省に導いてくれます。
| ・私はどんなときに、他者を心地よくさせるために自分を小さくしているのか? ・私は誰の承認を、自分らしくあることよりも優先しているのか? ・私の沈黙は、どんな文化を強化してしまっているのか? |
そして何より重要なのは、「私はこれから続く人々に、どんなリーダーシップを示したいのか?」という問いです。
沈黙は決して中立ではありません。私たちが自分を見えないように調整するたびに、他者を制限する規範に加担してしまいます。
今の私たちにとって、もっとも意味のあるリーダーシップの行為は、おそらく、自分がどこで調整し過ぎてしまったかに気付き、本来の自分へと立ち返ること──ではないでしょうか。
次回のコラムでは、特に上下関係が厳しく調和を重視する文化において、燃え尽きることなく日常的なバイアスに対して声を上げる方法、つまり組織が掲げる価値観を本当に実践しているかどうかを試す方法を探ります。

ベッティーナ・メレンデス
戦略立案、マーケティング、ビジネスデザインを専門に国際的に活躍。オランダ領キュラソー島政府観光局やベルリンのスタートアップで経験を積み、10代の頃からNGO活動に携わるなど、社会貢献にも積極的に取り組み、サステナビリティに関する幅広い知見を持つ。2021年に顧客体験を重視した幅広いデザインを提供するニューロマジックに参画。2024年からはニューロマジックアムステルダムのCEOおよび東京本社の取締役CSO(Chief Sustainability Officer)に就任し、持続可能な未来の実現に取り組む。 現在はオランダ・アムステルダムを拠点に活動中。社会・環境・経済のバランスを考慮したビジネスの推進に尽力している。














