• 公開日:2025.09.08
連載『ビジネスと人権:企業の「なぜ?どうして?」に答える』
【ビジネスと人権コラム】第1回 人権尊重に取り組むと何か“良いこと”があるの?
  • 矢守 亜夕美

本連載「ビジネスと人権コラム」の前シリーズ「今とこれからを考える」では、国際的な潮流や基本理念、企業事例をもとに、人権の尊重が経営に不可欠である理由を解説しました。その続編となる今シリーズ「企業の『なぜ?どうして?』に答える」ではさらに踏み込み、経営者や担当者から寄せられる率直な疑問を題材に、具体的な視点と事例でお答えします。「どこから手をつけるべきか」「取り組みをどう整理すべきか」といった実務的な悩みに寄り添い、人権課題を経営課題として取り組むための考え方やヒントをお届けします。第1回目の「疑問」はーー。

人権尊重に取り組むと、自社の事業や売上に何か“良いこと”があるの?

「経営の重要テーマ」としての人権尊重の意義

「人権尊重が大切だということは、もちろんよく理解している。ただ、それが自社の経営にどう役立つのか、取り組むメリットがあるのか、正直ピンとこない」――これは、日ごろ多くの日本企業の経営陣とお話する中で、よく出てくる「本音の問い」の一つです。併せて、「一体どこまでやれば『最低限取り組んでいる』と言えるのか?」といった質問も、多く耳にします。

この「よくある問い」に対して、まず大前提としてお伝えしたいのは「人権尊重はもはや単なる『倫理の問題』ではなく、『企業経営の最重要テーマ』と捉えなければならない」ということです。「取り組むことのメリット」を考える前に、そもそも「取り組まなければ、経営に大きなダメージを受け、会社がつぶれる可能性すらある」重大テーマなのです。

例えば最近、国内で大きな注目を集めた大手テレビ局や芸能事務所の問題などは記憶に新しいところです。もし重大な人権侵害の疑いが発覚すれば、どんな大企業でも経営が傾くほどの事態に陥る例を見て、多くの企業が「他人事ではない」と実感したのではないでしょうか。

もはや「取り組んで当然」

近年、取引先に対して人権尊重を義務づける企業は年々増えており、もし深刻な人権問題が発覚した場合には、取引停止に至る例も増えています。さらに、消費者の人権意識も高まっているため、不買運動などに発展する可能性もあります。このような危機を防ぐための「守り」の対応として、人権尊重はもはや「取り組んで当然」のテーマとなっているのです。

とはいえ、「リスク管理」の観点のみから捉えていると、企業としてはどうしても「コストをかけないよう、できる限り『最低限』で取り組もう」と考えてしまいがちです。ですが実際には、人権への取り組みが自社の事業にポジティブな影響をもたらすこともあります。「守り」だけではなく「攻め」にもつながる、ということです。ここからは、その「前向きなメリット」にも目を向けてみましょう。

ブランド価値の向上や人材獲得につながる

まず期待できるのは、ブランド価値の向上です。今や、多くの消費者が「この会社は人に優しいか」「社会に配慮しているか」という視点を持って商品やサービスを選ぶようになってきました。特にZ世代以降では、企業の社会的責任への関心が強く、「共感できる企業」を積極的に選ぶ傾向が強まっているといわれます。

例えば、サステナビリティ先進企業として知られるユニリーバは、人権尊重の取り組みに力を入れる姿勢を早くから示してきたことでブランドへの信頼感を獲得し、確固たる地位を確立している例と言えるでしょう。

また、投資家からの評価を獲得するためにも、今や「人権」は決して無視できないテーマです。ESG投資において、かつては「E:環境」が最も注目されていましたが、今最も注目を集めているのは「S」、つまり「社会・人権」です。

国際的な情報開示基準として知られるGRIスタンダードでも、最も多くの開示項目が定められているのが「S」の領域です。また、気候変動の開示フレームワークであるTCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)、自然資本を対象とするTNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)に続き、現在は「人権版TCFD」とも言われるTISFD(不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース)の検討が進んでいます。「E」から「S」への流れが加速する中で、今後は、人権対応に関する開示がより期待されることになるでしょう。

実際に、ここ数年の間で「投資家から、人権への取り組みについて突っ込んだ質問を受けるようになった」と感じている企業も多いのではないでしょうか。人権尊重に本腰を入れていると示すことは、透明性・信頼性のアピールとなり、自社の評価向上に直結します。

さらに、人材獲得へのポジティブな効果も期待できます。先ほど触れた通り、特に若い世代ほど企業の社会的責任への意識が高く、職場を選ぶ際にも「信頼できる企業かどうか」を重視しています。最近では、採用現場でも「御社の人権への取り組みは?」と訊かれるケースが増えていると、人事担当者からの声を多く耳にします。


今後、優秀な人材を獲得したければ、人権尊重の姿勢を明確に打ち出すことは必須と言えます。すでに働いている社員にとっても、「自分を含むあらゆる人を尊重してくれる職場だ」という実感こそが、エンゲージメントの向上につながるはずです。

「本気」の取り組みが他社との差別化のチャンスに

また、人権課題に真摯に向き合うことで、新たな事業やイノベーションの創出につながる可能性もあります。前シリーズの9回・10回でも紹介したように、「社会の中にあるさまざまな人権課題を、自社の事業を通じてどう解決できるか」という視点を持つことで、これまで見えていなかった潜在ニーズを掘り起こし、新たなサービスや製品、あるいは市場そのものを切り開く可能性が生まれます。

例えばソニーは、アクセシビリティ対応(障害のある人も利用しやすい機能やサービスの開発)に注力し自社の強みとすることで、単なる社会貢献・CSRにとどまらず、ビジネスの拡大にもつなげています。こうした取り組みは、社会課題の解決と企業の成長を両立させるモデルケースの一つと言えるでしょう。

このように、企業にとって人権尊重の取り組みは、自社を「守る」ために必須であるだけでなく、「攻め」の観点で経営や事業にポジティブな影響をもたらすものなのです。「最低限のことをやればよい」ではなく、前向きに、かつ「本気」で注力することで、他社に大きく差をつけるチャンスにもなり得ます。

そしてそれを実現するには、まず何よりも経営陣が人権尊重の意義を深く理解し、強いコミットメントを示すとともに、充分なリソースを投じていくことが求められます。人権に向き合うことは、これからの時代における「強い経営」の土台となる、という意識を備えた上で、ぜひ社内での議論を活発にしていってください。

「ビジネスと人権コラム」の前シリーズは、こちらからお読みいただけます。

【参照サイト】
・GRIスタンダード
https://www.globalreporting.org/standards/

・TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)
https://www.fsb-tcfd.org/

・TNFD(自然関連財務情報開示タスクフォース)
https://tnfd.global/

・TISFD(不平等・社会関連財務情報開示タスクフォース)
https://www.tisfd.org/

written by

矢守亜夕美(やもり・あゆみ)

株式会社オウルズコンサルティンググループ 執行役員 / パートナー

A.T. カーニー(戦略コンサルティング)、Google、スタートアップ等を経て現職。東京大学法学部(公法コース)卒。現職では「ビジネスと人権」チームのリーダーを務め、多くの企業の人権・サステナビリティ対応を支援。 著書に『すべての企業人のためのビジネスと人権入門』(共著: 日経BP 社)がある他、経済産業省「ビジネスと人権」セミナー講師(2021年)、東京都人権プラザ主催「サステナビリティと人権」セミナー講師(2022年)等、登壇実績多数。 労働・人権分野の国際規格「SA8000」基礎監査人コース修了。

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