
近年、「ウェルビーイング」はサステナビリティと並び、企業経営や社会のキーワードとして急速に広がっている。政府の政策にも盛り込まれ、多くの企業が「働く人の幸福」や「健康経営」を掲げるようになった。そうした中、2025年9月に千葉商科大学で開かれたシンポジウムでは、哲学や経済学の研究者、企業コンサルタントらが「人・社会・自然」という3つの次元からウェルビーイングの本質を問い直した。それぞれの報告から浮かび上がったのは、「ウェルビーイングとは答えではなく、問い続ける営みである」という共通の視座だった。シンポジウムの様子を紹介する。
「良い状態」を定義すること自体を問い直す

基調報告で千葉商科大学の荒川敏彦氏(人間社会学部教授)は、「ウェルビーイング」を個人の感情や主観的幸福としてではなく、社会の構造に潜む不平等や暴力を見抜く視点として提示。ノルウェーの社会学者、故ヨハン・ガルトゥングの「構造的暴力」の概念を引きながら「人が自らの可能性を発揮できない状況そのものが、ウェルビーイングを損なう」と説明した。
また荒川氏は、世界保健機関(WHO)での「健康」の定義が身体・心理に加え社会的要因を含むように変化してきた経緯に触れ、幸福も社会的関係性の中で成り立つとの見方を示した。「ウェルビーイングとは、良い状態を定義することではなく、誰にとって良いのかを問うこと。つまり『答え』ではなく、『問い』続けることが重要だ」と指摘し、個人・社会・自然をつなぐ「補助線」としてウェルビーイングを位置付けた。
選択できる自由を保障する制度設計

続いて登壇した、同じく千葉商科大学人間社会学部教授の伊藤康氏は「科学は、政治の影響などによって時にゆがめられる。健全な社会のウェルビーイングを保つには、科学の自由と透明性が不可欠だ」と語る。原子力行政などを例に、規制当局が産業と癒着する「規制のとりこ」を防ぐ仕組みとして、情報公開や公文書管理、報道の自由を挙げた。
さらに伊藤氏は、1998年にノーベル経済学賞を受賞した、インド出身の経済学者で哲学者でもあるアマルティア・セン氏の「ケイパビリティ・アプローチ」を引用し、幸福を満足の状態ではなく、選択できる自由として捉える重要性を指摘。ウェルビーイングとは、個人の内面ではなく、自由を保障する社会の仕組みの問題だと訴えた。
GDPでは測れない「幸福」の重要性

京都大学公共政策大学院教授の諸富徹氏は、経済学の立場から「持続可能な発展とウェルビーイング」をテーマに講演。経済成長と幸福度が比例しない「イースタリン・パラドクス」を紹介し、「GDPでは測れない幸福」の重要性を強調した。自然資本・社会資本・人的資本を含む概念として「豊かさ」を取り上げ、短期的な成長ではなく、資本をどう未来につなぐかが真の豊かさだと述べた。
さらに、セン氏の理論を援用し「発展とは人間の自由を拡張すること」であり、環境の持続可能性はその前提条件だと指摘。貧困の削減も環境保全も、自由の拡張を通じて両立できると語り、経済・社会・環境の好循環を描いた。また、教育や健康といった人的資本への投資が環境問題への意識を高めることで、持続可能な社会に貢献しうるとの見方を示し、長期的視点や意識づくりの重要性を指摘した。
人・社会・自然のつながりから未来を描く

SustainWell Imazu代表で、Sinc 統合思考研究所客員研究員の今津秀紀氏は、ウェルビーイングという言葉が企業で使われる際、「『人』に偏りやすい」と指摘。「従業員満足や健康経営だけでは、社会や環境とのつながりが抜け落ちてしまう」と警鐘を鳴らし、人・社会・自然の3層構造でウェルビーイングを捉える必要性を訴えた。人=健康やエンゲージメント、社会=共生や包摂、自然=未来世代の生存基盤という整理を基に、「サステナビリティがマイナスをゼロに戻す取り組みだとすれば、ウェルビーイングはゼロの状態からプラスの価値を生み出す考え方だ」と語った。
企業が従業員に心地良い職場をつくるだけでなく、社会や地球にとって心地良い存在となることが重要だと訴えた。また今津氏は、ウェルビーイングの実装において、定量化できない価値をどう評価し、意思決定につなげるかが課題だと強調。「サステナビリティとウェルビーイングは切り離せない」とし、人・社会・自然のつながりを軸にした未来像を描けるかどうかが、今後、企業のポイントになるとの見方を示した。
問い続けることから始まる
シンポジウム後半にはパネルディスカッションが行われ、会場からの質疑も交えて活発な議論が展開された。各氏の報告や議論を通じて共通していたのは、ウェルビーイングを「唯一の答え」として扱わない姿勢だ。
幸福、自由、持続可能性、価値創造――それぞれの領域で語られた言葉は異なっても、根底にあるのは同じ「問い」だった。企業経営の現場でも「ウェルビーイング経営」を掲げるだけで終わらせず、「誰の幸福を目指すのか」「社会や自然との関係をどう築くのか」を問うことが出発点になる。その問いこそが、これからの企業が価値を生み出すための原動力になるのかもしれない。
眞崎 裕史 (まっさき・ひろし)
サステナブル・ブランド ジャパン編集局 デスク・記者
地方紙記者として12年間、地域の話題などを取材。フリーランスのライター・編集者を経て、2025年春からサステナブル・ブランド ジャパン編集局に所属。「誰もが生きやすい社会へ」のテーマを胸に、幅広く取材活動を行う。












