
「カフェでPCを広げて仕事する」。東京ではありふれた光景だが、ドイツの都市で同じことをやると、かなり違和感を持って見られる。なぜなら、ドイツで「カフェ」は「つながりのホットスポット」であり、都市の持続性に欠かせないものと位置付けられているからだ。
本コラムでは、ドイツに20年以上在住する筆者の目を通して、歴史的な街並みが広がるドイツの「都市」を支える、市民の「シビックコード(見えないルール)」を読み解く。
ミュンヘンのカフェで感じた「違和感」
所用でミュンヘンに滞在していたときのこと。空き時間ができて、天気もさえないのでカフェに入った。PCを広げて原稿を書き始めると空気が一変した。
店内は閑散としていたので、「ま、いいか」と始めたが「ここで何してるの?」という店員の視線が刺さる。
思い返せば、カフェとPCの組み合わせが、日本では、「クリエイティブ」や「勝ち組」の象徴として語られるようになったのは、2000年代初頭か。この頃ドイツでも、当時の創造経済の議論と併せて、ラップトップとカフェ、カプチーノをセットにしたようなイメージが会話に上ることはあったが、主に左派系からはワークモデルとしての浅はかさと不安定さが指摘されていた。つまり、軽薄なライフスタイル志向ととられている向きがあった。ドイツの「カフェ」はそうしたイメージとは明らかに異なる空間であり、日本とは捉え方が違うからだ。
カフェは「社会の居間」
PCを広げて冷たい視線を浴びたのとは、真逆の経験もある。
私がエアランゲン市に拠点を移したころ、最初の「観察拠点」の一つになった、劇場の隣にあったカフェでのことだ。当時、この店のマスターは詩人でもあり、地域の文化人で顔も広かった。私たちは友人になり、著書の交換などもした。
ドイツのカフェやレストランには常連席(シュタムティッシュ)がある。これはドイツ文化の一つとしてよく紹介されるので深く知りたい方は調べてみるとよい。 マスターはそこに座って、地元の知識人や文化関係者らと愉快に話していることがよくあった。また場所柄、劇場の上演が終わると、観客が流れてくる。ワインやコーヒーを片手に、作品の話から、政治までを語り合う。まさに都市の「サロン」であり、かつ専門性の高い「社会の居間」として機能していた。

ドイツの都市では、カフェは公共空間と私的空間のあいだにある「サードプレイス」だ。これは、アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが1989年に提唱した「家庭(ファーストプレイス)」「職場(セカンドプレイス)」に続く、第三の居場所という議論で、ご存知の方も多いだろう。だが「サードプレイス」の議論が有名になる前から、重要な場所だった。
ドイツのカフェは、飲食の場という以上の考え方が基本にある。そもそもドイツの「都市」とは、見知らぬ者同士が集まった場所という自覚が強く、都市づくりの根底には「赤の他人の集まり」という前提がある。
統計的に人口が多いだけでは、それは「都市社会」とは呼べない。だからこそ、カフェのような空間で、異なる立場や世代、目的を持つ人々が偶然に交差し、時に議論を交わすことが、都市の生命線となる。そこには、親密なつながりだけでなく、目的別の集団や緩やかな関係が幾重にも折り重なり、都市社会の多様性と強靭(じん)さが生まれる。カフェは、都市に「ただ人がいる」だけでは生まれない、複雑でしなやかな社会の土壌を育んできたのだ。
その考え方と符号するのが日曜日。法律で小売店は営業できないが、飲食店だけは開いている。買い物はできないが、カフェに集まり、会話を楽しむ、人と人のつながりのホットスポットだ。隣の見知らぬ客に、しょっちゅう話しかけたり、話しかけられたりするわけでもないが、それでも突発的な会話が始まることも時にはある。私も突如、会話をした経験が時々あるが、劇場の隣のカフェはその頻度は高かった。
カフェ、都市、そしてシビックコード
日本と比べて、ドイツの都市および都市社会の視覚的なイメージは違うのはもちろんだが、そこに向き合う人々の思いも随分と違う。ドイツで「都市」と言えば、規模の大小に関わらず、歴史的な街並みや石畳の広場、歩行者専用の中心市街地、そして劇場やカフェといった文化的な公共空間の存在を指す。そして人々は、そうした公共空間で市民同士が自由に議論し、地域コミュニティの自律性や多様性が高められることを「期待」しているのだ。
劇場や隣のカフェでの私のエピソードはエアランゲンという、人口がわずか12万人の地方の町の話である。つまりドイツの「都市」とは文化があり、「地縁」とは異なる社交が盛んで、これが「都市らしさ」という質的なものを作っていく。都市全体で言えば、それが中心市街地と呼ばれる、都市の発祥地で、歩行者ゾーンになっているところでもある。
一方、私の体験の範囲でも、マスターの存在感が強い「カフェ」は減りつつある。それでも、時々、意見交換のために会う友人がいるが、場所は決まって町中のカフェだ。そこには、相も変わらず、人々が「何をそれだけ話すことがあるんだ」と思うような光景が見られる。そういう役割があるせいか、BGMは流れていないか、流れていても音量の小さいところも多い。
ドイツの都市は、法律や制度だけでなく、人々の信頼や合意形成、公共空間の使い方、地域コミュニティの自律性といった市民の「シビックコード」によって支えられている。だからこそ、都市は持続可能であり続ける。カフェはその縮図だ。PCを広げて孤立するのではなく、他者と空間を共有するのが、この社会の「当たり前」なのだ。

高松 平藏 (たかまつ・へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト
ドイツの地方都市エアランゲン市(バイエルン州)および周辺地域で定点観測的な取材を行い、日独の生活習慣や社会システムの比較をベースに地域社会のビジョンを探るような視点で執筆している。日本の大学や自治体などでの講義・講演活動も多い。またエアランゲン市内での研修プログラムを主宰している。 著書に『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか―質を高めるメカニズム』(学芸出版)をはじめ、スポーツで都市社会がどのように作られていくかに着目した「ドイツの学校には なぜ 『部活』 がないのか―非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房)など多数。 高松平藏のウェブサイト「インターローカルジャーナル」