
日本が名目GDPで世界3位の座をドイツに明け渡したのは、2023年のデータが出そろった2024年のことだ。IMF(国際通貨基金)によると、2026年にはインドにも追い越される見通し、とされる。しかし、日本はドイツに「抜かれた」のではない。自らの構造的停滞の結果として順位を落としたのだ。本稿では、ドイツとの比較から、日本の失われた30年の本質を捉え、立ち直る道を探る。
1 戦後日本を支えた「再帰的前近代化モデル」の限界
日本の戦後経済成長を支えたのは、筆者がドイツからの視点で名付けた「再帰的前近代化モデル」という独自の発展形態である。近代以前の集団主義や上下関係、忠誠心といった価値を、近代社会の中で磨き直し、経済成長の推進力に変えた構造だ。「体育会系人材」を好む企業体質や終身雇用、年功序列はその表れであり、制度よりも「人の頑張り」が成果を生むという信念が昭和の企業社会を支えてきた。
だがこの仕組みは、バブル経済を境に限界を迎えた。グローバル化と技術革新が進む現代において求められるのは、個人の柔軟性と多様性を前提としたイノベーションである。その典型の一つがiPhoneだろう。日本企業はその中の精密な部品を作れるが、社会全体を変えるような「デザイン」の発想には乏しい。
鍵を握るのは「批判」の思考である。批判とは相手を否定したり論破したりすることではなく、より高い精度で理解し、思考を深化させるための知的な方法である。西洋社会では、理性をもとに自ら考え判断する個人の姿勢が制度や教育に組み込まれ、それが批判を通じた創造的更新を生み出してきた。
それに対して日本では、長く、批判は「和を乱す」とみなされ、衝突を避けることが秩序とされてきたため、意見のつばぜり合いから新しい概念を紡ぐ力が育ちにくい。戦後日本を繁栄に導いた再帰的前近代化モデルは、いまだに変化を阻む装置として働いており、経済停滞の根はそこにある。
2 ドイツの「バッファ」と日本の孤立構造
日本の停滞を考えるとき、単に経済の強弱を比べても本質は見えない。むしろ重要なのは、経済を支える社会的な「つながり方」の違いである。ドイツは、近隣諸国と連携する巨大な仕組みであるEUの中で動いている。EU圏では、ヨーロッパ中央銀行(ECB)が金融政策を統括し、NextGenerationEUが共同基金として財政を下支えする。さらに2025年に本格運用が始まった「競争力コンパス」は、域内の規制緩和と投資環境整備を通じて経済全体の安定と競争力強化を意図している。
この広域的ネットワークはドイツにとっての「外部環境」であり、ショックを分散する経済のバッファ(緩衝材)として機能している。ドイツは大国ゆえに、その整備にも大きな責任を負うが、同時にその中で安定を得ている。
これに対し日本は、日米同盟こそあるものの、構造的に国内の制度だけで経済を支えねばならない。名目GDPが為替に大きく左右される背景には、外的支えを欠くこの構造がある。通貨の揺れが国力の揺れとして直結してしまうのだ。政府は経済連携協定(EPA)やインド太平洋構想を推進しているが、EUのように制度そのものを補完する「連携」にまで深化させなければ、構造的な孤立からは抜け出せない。
3 中央集権型のリスクと失われた地域社会
日本とドイツはいずれも少子高齢化に直面しているが、ドイツでは多様な外国系市民が社会を支える力になっている。帰化や難民、婚姻、留学など、多様な背景を持つ定住外国人を、「移民背景市民」と定義付け、政策に展開。社会には緊張もあるが、それでも「共に社会をつくる」方向を模索している。対して日本は定住外国人の定義すら曖昧で、ドイツのような「移民背景市民」概念に相当する包括的統計・政策枠組みが欠如している。まず現状の可視化が必要だ。
さらに日本では、中央集権構造がリスクを一極集中させている。東京圏がGDPの3割を占める一方、地方の生産性は低い。ドイツの連邦制は「元気な国とは元気な地方の集積」という構造であり、地方の中小企業と研究機関の連携が都市全体の知識資本を生み、新産業を育む。一方日本では、産学連携が個別プロジェクトにとどまり、都市レベルの体系的蓄積に至っていない。

こうした背景には、ドイツでは、地方が自らの判断で地域を自律的に運営しようとするマインドが強いことがある。これは、上述した「理性的に自己決定する主体」の拡大形と解釈できる。しかし、もちろん自治体単独ではできないこともあり、自治体が限界を超えると、州や連邦、EUが補完する。これを「補完性の原理」といい、分権型の構造には必要不可欠な仕組みだ。
一方、日本では「失われた30年」の間に、地縁組織も衰えた。ドイツの地方都市には、目的別の非営利組織が無数にあり、筆者の住む人口12万の都市にも約800団体が活動する。こうした制度的な「出会いの場」「コミュニティ」が、多様な他者の協力を可能にし、地域経済と市民社会を動かしている。これに対し、日本ではそうした器がなく、地縁組織に代わって人々をつなぐ「別の回路」に乏しい。
4 日本の自律的発展の条件とは
日本がGDP4位に自ら転落した背景には、再帰的前近代化モデルの硬直化、国際的孤立、中央集権と人口構造の脆弱さがある。こうした三重苦、四重苦を脱するには、地方の自律的発展を国家戦略の中核に据える必要がある。
「自律」とは、人口構造の変化に合わせて、移民・定住外国人政策を見直し、誰もが地域社会の構成者として、経済・文化・教育・福祉をはじめとするあらゆる活動に自主的に参加できる枠組みを整えることだ。企業が短期業績を気にするのは当然だが、永続的存続には拠点地域の社会そのものを豊かにする超長期投資が不可欠である。金融・財政運営も、社会基盤の強化を最優先に再設計すべきだ。経済は需要・供給だけでなく、堅固な「社会」の上に成り立つからである。
ただし、中央集権の枠内で「地方創生」を進めるのは構造的に無理がある。制度的に地方が自ら組み立て、上位機関が補う仕組み、ドイツの「補完性の原理」のようなものが必要だ。
ドイツでも経済低迷は問題視されているが、GDPの順位で一喜一憂してはいない。「自国と世界での責任を果たすこと」が国家目標のようなもので、「生き方」は明確だ。
GDPにこだわる日本は「どう勝つか」ではなく「どう生きるか」を政治的に示すべきだ。そして、「どんな社会を自ら設計できるか」を問う段階にある。それこそが持続可能性であり、この力を回復しない限り、順位に翻弄されるレースからは抜け出せない。

高松 平藏 (たかまつ・へいぞう)
ドイツ在住ジャーナリスト
ドイツの地方都市エアランゲン市(バイエルン州)および周辺地域で定点観測的な取材を行い、日独の生活習慣や社会システムの比較をベースに地域社会のビジョンを探るような視点で執筆している。日本の大学や自治体などでの講義・講演活動も多い。またエアランゲン市内での研修プログラムを主宰している。 著書に『ドイツの地方都市はなぜクリエイティブなのか―質を高めるメカニズム』(学芸出版)をはじめ、スポーツで都市社会がどのように作られていくかに着目した「ドイツの学校には なぜ 『部活』 がないのか―非体育会系スポーツが生み出す文化、コミュニティ、そして豊かな時間」(晃洋書房)など多数。 高松平藏のウェブサイト「インターローカルジャーナル」











