
一年を通して山の中に牛を放牧する「山地(やまち)酪農」を実践する岩手県のなかほら牧場。牛舎を設けず、山に自生する野シバや野草によって飼育し、自然交配や自然分娩(ぶんべん)を基本に、牛の生態に限りなく寄り添った飼育を続けてきた。その製品は多くのファンを獲得し、酪農を志す若者が門をたたく場にもなっている。しかし、効率を重視し牛舎で高栄養飼料を与える近代酪農に比べ、平均乳量はおよそ5分の1と少なく、経営面でのハードルは高い。そのため、2010年からIT企業のリンク(東京・港区)が経営を支える。2代目牧場長となった牧原亨氏とリンクの岡田元治社長に山地酪農の意義と、経営への課題、そして今後の展望について聞いた。(環境ライター 箕輪弥生)
近代酪農が失った、牛の生態に寄り添う山地酪農

私たちが普段飲んでいる牛乳が、牛の乳であることは知ってはいても、その牛がどのように育てられ、搾乳され、牛乳として店頭に並ぶのかを詳しく知る人は少ないかもしれない。
近代酪農の多くの場合、経済性を追求するため、牛は牛舎につながれ、高カロリーの輸入飼料を与えられ、搾乳される。子牛は産まれてすぐに母牛から離され、出産後は約40~60日で人工授精が繰り返されるのが一般的だ。母乳を子牛にあげることもなく、牧場を自由に走り回ることもなく、5~6年で淘汰(とうた)されることが多い。
一方、なかほら牧場が行う山地酪農は、近代酪農とは全く異なる飼育法だ。110頭の牛は一年を通じて、岩手・北上山系の60ヘクタールの野山を自由に歩き、駆け回る。15年以上元気に過ごす牛も珍しくない。
「子牛は気が付いた時にはすでに産まれていて、母牛が連れて見せに来てくれることもあります。もちろん、授乳は母牛が行うので、出産後の2カ月は、乳量はほとんど期待しません」と牧原牧場長は語る。
なかほら牧場では、自然交配と自然分娩によって、人の手を借りずに子牛が生まれ、母牛に育てられるという自然の営みの中で、命がつながれていく。

ここでの牛の主食は輸入配合飼料ではなく、野シバや山の植物だ。牛ふんはそのまま山の肥料となるため、ふん尿の処理は必要ない。さらに、牛たちが食べる野シバは、地下50センチまで深く根を張り、土壌を保全して土砂崩れなどを防ぐ役割も果たす。
夏はフレッシュな野シバをたくさん食べ、冬は干し草を中心に食べるため、季節によって牛乳の味が変化するのも同牧場の製品の特徴だ。牛乳が牛たちからの命の恵みであることを教えてくれる。
理念と現実のはざまで問う、持続可能な牧場経営

なかほら牧場は40年前、初代の中洞正氏が山を開墾して始めた。家畜にストレスを与えない通年型の昼夜放牧と植物飼料による飼育を徹底し、2017年には日本で初めてアニマルウェルフェア(家畜福祉)認証を受けた。
現牧場長の牧原氏は、実家が400頭規模の酪農家だったという経歴を持つ。13年前に中洞氏に声をかけられ入職し、2021年に2代目を継いだ。近代酪農を経験してきたからこそ、自然放牧で見られる牛の表情や行動に驚き、その世界に引き込まれたという。
しかし、課題はある。近代酪農では高エネルギー飼料と運動制限により日量30kg以上の乳量を得るのに対し、山地酪農は日量7kgとおよそ5分の1にとどまる。さらに近年の気候変動で夏場の乳量は30%ほど減ることもある。

一方、近代酪農も決して安泰ではない。輸入飼料や光熱費の高騰、牛乳価格の低迷が重なり、中央酪農会議によると酪農家の6割が赤字を抱える。戸数は昨年、初めて1万戸を割り込んだ。
なかほら牧場を16年前から支援するリンクの岡田社長は、「都市生活者の命を支えてくれるまともな1次産業を守るために始めたが、現実の経営との間には多少の葛藤もある」と胸の内を明かす。
なかほら牧場の乳製品は直販で年2億5千万円前後を売り上げ、リピーターも多い。しかし高額な設備投資を前提とする乳業モデルとは相いれず、年間赤字は1億円超と採算は厳しい。「良質の農業と環境を次代につなぐためにも、赤字の規模を穏やかなレベルに縮小するのが目標」と岡田社長は話す。

牧原牧場長もまた、経営の難しさに悩みながらも、牛の伸びやかな姿に価値を見出し、次世代へつなげるために模索を続ける。「牧場を訪れたほとんどのお客さまがファンになってくれる。牛の表情を見たり、搾乳をしてもらったりすると、体験として心に刻まれる」と話す。
実際、なかほら牧場で経験を積み、独立して山地酪農を始めるスタッフも少なくない。牛と自然、人間との関係、命のリレー――。現場での経験は、酪農の原点に立ち返らせる実践の場とも言える存在だ。
倫理的に正しく、エシカルな製品を軸とした経営はどの業種でも容易ではない。しかし、牛を健康に育て、山を守り、次世代の酪農家を育成するという数値に表れない価値を体現しているなかほら牧場だからこそ、日本ならではの持続可能な酪農の未来を描けるのではないだろうか。
箕輪 弥生 (みのわ・やよい)
環境ライター・ジャーナリスト、NPO法人「そらべあ基金」理事。
東京の下町生まれ、立教大学卒。広告代理店を経てマーケティングプランナーとして独立。その後、持続可能なビジネスや社会の仕組み、生態系への関心がつのり環境分野へシフト。自然エネルギーや循環型ライフスタイルなどを中心に、幅広く環境関連の記事や書籍の執筆、編集を行う。 著書に「地球のために今日から始めるエコシフト15」(文化出版局)「エネルギーシフトに向けて 節電・省エネの知恵123」「環境生活のススメ」(飛鳥新社)「LOHASで行こう!」(ソニーマガジンズ)ほか。自身も雨水や太陽熱、自然素材を使ったエコハウスに住む。JFEJ(日本環境ジャーナリストの会)会員。 http://gogreen.hippy.jp/