
福島県浜通り。南相馬市の小高区には、静かに、しかしはっきりと主張する美術館がある。彫刻、絵画、造形、写真、短歌、インスタレーションなど、25人の作家による個性豊かな作品が並ぶ「おれたちの伝承館」(通称・「おれ伝」)。
館長としてこの場を運営し、全ての作品をキュレーションする中筋純(なかすじ・じゅん)さんは、「体温のある作品を残したい」と語る。ここにある全ての作品に通底しているのは、2011年3月11日に発生した東日本大震災と、それに伴う東京電力福島第一原発事故を経て湧き上がった、個々人の強い思いである。
施設名称にある「おれ」とは自分自身を指し、福島ではジェンダーを問わずに使われる一人称だ。私も、あなたも、「おれ」たちは皆、伝えたい気持ちを抱えている。聞いてほしいことがある。「おれ」たちを大きな主語にまとめることなく、「おれ」たちそれぞれの表現をそのまま肯定したい。「おれ伝」には、そんなたくさんの思いが響き合っている。
声なき声が伝える、15年前の確かな営み
JR小高駅の周辺は、かつて家屋や店舗があったことを思わせる更地と、田畑と思われる土地が静かに広がっている。東日本大震災による津波では、駅舎も浸水し、原発事故によって高濃度の放射性物質が飛散した影響を受け、小高区の全住民が避難を余儀なくされた。帰還困難区域を除き避難指示が解除された2016年以降、住民の帰還が進み、現在では約4000人の住民が暮らしている。
「おれ伝」は、駅から徒歩約5分。入り口正面で迎えてくれたのは、隣接する富岡町にある桜の名所「夜の森桜並木」の写真だった。まだ帰還困難区域として規制されていた2020年、立ち入りを防ぐバリケード越しに撮影されている。

館内を一歩進むごとに、作品たちが静かに迫る。故郷を思う気持ちが込められた布絵。小高区にある村上海岸で拾った貝殻に寄せたつぶやき。和紙で制作された牛の白骨像。飢えた牛がかじった柱の再現。限られた文字数が、やるせない思いを膨らませる短歌。
一つひとつの作品が、声なき声で教えてくれる。15年前、この町には、かけがえのない人々の暮らしや、大切な存在がいたことを。



都心のフォトグラファーが見た原発事故の行く末
フォトグラファーとして東京で活動していた中筋さんは、雑誌や広告、映画に演劇など、華やかで多忙な隙間を縫って、個人的な作品の撮影も継続していた。2000年頃からは、産業遺構や廃墟の撮影にスポットを当てるようになる。その流れは彼を、ウクライナのチェルノブイリ原発へと導いた。2007年秋と2009年春に撮影に行き、それぞれ写真集を出版している。
中筋さん チェルノブイリ原発の内部に入った時、正直、こんなんでよく制御してたなあ、と思いました。日本の原発の制御室とは見るからに違う、ものすごく頼りない感じがしたんです。だから福島で原発事故があった時はびっくりしましたよね。事故自体もショックでしたけど、自分自身が日本の安全神話にべったり毒されていたんだと気が付いて、それもまぁ本当にショックでした。
事故から20年以上経過したチェルノブイリ原発を見ていた中筋さんは、福島の原発事故も長期間を要すると予想した。原子力の行く末も、放射能の減少も、地域住民の帰還や町の復興も、全て途方もない時間が掛かる。この先を見届けようと思った。
中筋さん 最初に浜通りでシャッターを切ったのはここ、小高区でした。小高は2012年の5月から立ち入りできるようになったんです。その時は人の気配がないことよりも、まだ地震の影響が色濃く残っていた頃です。でもね、駅前の自転車置き場とか店舗の中とか、通うたびに少しずつ変化するんですよ。ずっと廃墟を撮ってきたせいか、そういう微小な変化に敏感なんですね。

中筋さん 原発事故は、とにかく長期戦。その覚悟をしないといけないんです。じゃあそれを写真で伝えるにはどうしたらいいのか。例えば津波で打ち上げられた船も、初めは泥の上にあったものが、数年放置されたらそこが一面、草原に変わるわけですよ。その変化を撮る。
その風景が見せるのは、喪失です。津波による喪失とは違い、時間とともにどんどん街が朽ち果てていく風景。人によっては、自分の故郷の変化と重ねながらその写真を見るでしょう。そうやって、被災を経験した当事者と、非当事者の隙間を埋めることが写真にできるんじゃないかと思うようになりました。
「家のコンセントの向こう」をどう見せるか
時間の経過を軸に撮影しようと思った中筋さんは、浜通りの撮影に通いながらも、チェルノブイリ原発を再訪する。違う季節を撮るために、2011年〜2014年の間は毎年1度のペースでウクライナに飛んだ。一度は、事故を起こした4号機に入れるよう手配してもらったこともあるが、当日になってセキュリティの厳しさが立ちはだかり叶わなかったと言う。2011年の福島と1986年のチェルノブイリ、8500キロの距離と25年の月日を往復しながら、自問を重ねていた。
中筋さん 廃墟って何なのか、と自分に問い直していました。極端に言えば、産業が産んだ結果ですよね。しかも福島の原発は、東京で使う電気を作っていたわけです。自分の家のコンセントの先に福島があった、そのことは東京の人たちこそもっと真剣に議論しなきゃいけないことじゃないか、と思いました。

無人化した浜通りを撮影していた期間に、中筋さんは多くの出会いに触発され、さらなる挑戦も厭わなくなっていく。『はだしのゲン』を描いた故・中沢啓治さんや、フォトジャーナリストの草分け的存在だった故・福島菊次郎さんなど、生前に交わした言葉に、写真の力を信じる勇気を得た。
また、「おれ伝」にも作品を寄せる浪江町出身の歌人・三原由起子さんの短歌に望郷の念を感じ、写真の見せ方を考え直した。「どうやったらこの現実が伝わるのか」。写真の見せ方に、徹底的にこだわるようになっていく。
二年経て浪江の街を散歩する Googleストリートビューを駆使して
(三原由起子『ふるさとは赤』/ 本阿弥書店)
2016年には写真集『かさぶた ― 福島 The Silent Views』の出版とともに、自ら写真展を企画した。展示場所を検討し始めた前年2015年にはすでに、都心にいると大衆の忘却が感じ取れた。

2026年3月11日には、故・中沢啓治さんのご縁から受け取った、被爆樹木を植樹する。
来訪者数8000人達成。作品の「声」を届けるために
全国で写真展を展開しながら、中筋さんは写真以外の表現者と出会うことが増えた。「前代未聞の大惨事によって、表現のカプセルを開いた人がたくさんいた」と実感し、彼らの作品に魅せられた。絵や彫刻、イラスト、インスタレーションなど、それぞれに体温が宿り、写真とは似て非なるメッセージの伝わり方を感じた。
現実を真正面から伝える写真だけではなく、作家との共演を考えるようになった中筋さんは、2017年7月、数人の作家とともに「もやい展」を主催。もやいとはロープの結び方の呼び名だが、人間同士のつながりを示す言葉へと転じた。水俣病の社会活動でも使われたように、分断の溝が深まりつつあった福島でも、表現によるもやい直しを願う気持ちが込められている。
各地で巡回展を重ねるごとに反響は広がりを見せ、もやい展の参加アーティストが増えた。またこの時期、2019年〜2020年頃は、震災を言い伝える伝承館が東北の各地に造られ始めた時期でもある。
中筋さんも常設展示を叶える場所を探し始めた時、小高区の老舗旅館「双葉屋旅館」の小林友子さんの協力を得て、「おれたちの伝承館」が誕生するに至る。オープンを迎えたのは震災から12年、小高区の避難指示解除から7年目となる2023年7月12日だった。

中筋さん 今はまぁ、寝ても覚めても毎日「おれ伝」のことを考えていますね。開館からの2年半で、来訪者の累計は8000人になりました。これからもできるだけたくさん、いろんな立場の人に見に来てもらえるように、企画展示やイベントを考えています。学生など次世代が立ち寄ってくれることもうれしいですね。前情報なく寄ってくれたサイクリストたちが時間を忘れて見入っている姿とか、海外から来た人たちの反応を見ると、作品を見てもらえてよかったと思います。
近隣の方々が気軽に立ち寄ってくれたり、来た人同士が知り合えたりするような場でもありたい。双葉屋旅館の友子さんとも、未来の構想をいろいろ考えています。ここで作品を見てもらい、それぞれのメッセージを伝えていくこと。それが今の自分の仕事だと考えています。
15年という年月において、中筋さんの暮らしは大きく変化した。しかし、あれほどの大惨事を経て何も変化しないのだとしたら、その方が不自然であり、恐ろしいことではないだろうか。私たちがそれぞれの15年を振り返り、未来を問う。「おれ伝」は、そのための場所でもある。
(撮影:蒔田志保)
やなぎさわ まどか
ライター/コピーライティング/翻訳マネジメント
生活者と社会課題の接点に関心を持ち、専門家や実践者などを取材。主なテーマは食・農・環境・ジェンダー・デモクラシー・映画・禅など。東日本大震災をきっかけに街から山間部へ移り、環境負荷の少ない暮らしを実践中。趣味は田畑と季節の手仕事。心の機微に気付ける書き手であることを願い、愛猫の名前は「きび」。株式会社Two Doors代表。














