創業者の思い引き継ぎ、ブランドの価値を広げる「函館カール・レイモン」
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北海道・函館で、98年の歴史を持ち、おいしさはもちろん、本物にこだわるものづくりの姿勢が地元の人々に愛され続けるハム・ソーセージのブランド「函館カール・レイモン」。1925年、貧弱だった日本人を食べ物によって丈夫にしたいと願い、そのためにビジネスとしてのステータスを確立し、さらには北海道を循環型畜産王国にする夢までも追いかけた起業家カール・ワイデル・レイモン(1894〜1987)が創業したブランドだ。1983年には日本を代表する食品メーカーのひとつ日本ハムグループの一員となり、地域とともにレイモンの志を今に引き継ぎ、さらなるブランドの価値向上を目指している。
函館カール・レイモン https://www.raymon.co.jp/
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チェコ出身、食肉加工のスペシャリストの壮絶な人生
創業者カール・レイモンのハム・ソーセージづくりを、そっくり引き継いでいるのが「函館カール・レイモン」だ。その価値の源泉を知るにはカール・レイモン自身の半生を知る必要がある。
オーストリア・ハンガリー帝国ボヘミア地方(現チェコ)出身のレイモンは、1919年に日本を訪れ、食肉加工者のスペシャリストとして東洋缶詰会社の重役で伯爵の柳澤保恵に出会う。柳澤はレイモンに「日本人はもっと腕を磨き、体力をつけなければならない。そのためには乳製品やハム・ソーセージなどを食べることが必要だ」と語り、ぜひ1年間の期限で指導してほしいと願った。その申し出を快く引き受けたレイモンは東京・本所にある東京缶詰で技術指導し、ハム・ソーセージがつくり出されていった。
1年のハム・ソーセージづくりの指導を終えたレイモンは、その後、東洋缶詰に空き缶を提供していたセール・アンド・フレイザー社からカムチャッカでの缶詰づくりの技術指導と不良品のチェックをしてほしいと請われ、函館に行くことになる。ここで、レイモンは柳澤伯爵の願いに応えるため、ハム・ソーセージメーカーを起業し、小さな店をつくる。しかし、肉製品に馴染みのない時代で、あまり売れなかったが、レイモンの志はぶれなかった。
「人は豊かな食べ物と住み心地の良い家があれば、のんきに暮らすことができます。国家もそうです。食糧の心配をしないですむということは、経済発展のたどりつく理想であり、人類の文化と国家の自立や自由をもたらすもっとも基本で大切なことなのです」
100年前、レイモンが北海道で実現したかった夢とは
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もうひとつ、レイモンには北海道で実現したい夢があった。畜産を主事業にした北海道開発構想である。1925年の秋、その実現に向けて北海道庁に『食料と自給体制について』と題したプランを提出した。しかしながら、採用はされなかった。
当時、北海道の開発は「北海道拓殖計画」という国策プランをベースに進んでいた。その第2期は、1923年の関東大震災の直後であり、北海道への移民を募集したが、牛乳・バター・チーズづくりの酪農を重視し、新規移民の経営手段にした。ただ、ここにはハム・ソーセージなどの畜産加工品は想定されていなかった。ハム・ソーセージを食する習慣が一般的になかったことと、日本には畜産加工技術がなかったためだった。
小さな店も北海道開発構想も行き詰まっていたレイモンに、救世主が訪れたのは函館に戻って3年目の1928年だった。ドイツ海軍の軍艦エムデン2世号が函館に寄港したのである。船長以下、船に積み込む食料を調達するためにレイモンの店を訪れて、レイモンにつくれるだけの商品を全部買い取り、ほかの食料もレイモンに任せると依頼してきたのだった。そのおかげでレイモンの店は立ち直り、資本もできた。1929年頃になると庶民にも肉食になじみがでてくるようになり、レイモンのハム・ソーセージも売れるようになり、より新鮮な肉を加工できる大型の工場を五稜郭につくることにした。それはレイモンが夢見る北海道開発構想の具現化でもあった。
翌1931年、評判を聞きつけた北海道庁から長官を筆頭に技術者14人の視察団がレイモンの工場にやってきた。工場を視察した当時の長官だった佐上信一は、北海道開発のためのプランを考えてくれないかとレイモンに依頼したのだった。
戦争で迫害や差別も 理不尽な仕打ちにもくじけず
レイモンの北海道開発構想の夢がまた立ち上がる。そして新たな『食料と自給体制』プランを道庁に提出した。それは、畜産から加工、それに伴う副製品の製造から販売までを1カ所で展開する半永久的に持続可能な「循環型畜産体制」を北海道で構築し、食料も雇用も人々の生活も安定するというプランである。だが、長官直々の依頼だったにもかかわらずまた採用されなかった。
レイモンはくじけなかった。自分の夢を実現するため、五稜郭工場開業の2年後の1932年、大野町(現在の北斗市)に工場をつくる。地域農家との協力で成り立つこの新工場は、住宅、畜舎、牧場、サイロ、食肉処理場を併せ持つハム・ソーセージづくりの一大拠点であり、北海道開発構想のミニュチュア版だった。その成功は近隣の農家だけでなく広く知れ渡ることになった。1935年、レイモンに「ぜひ満洲国の畜産に力を貸してほしい」という関東軍・満鉄からの依頼がきた。レイモンは畜産開発構想を、より広大な満州で実現できると引き受けた。レイモンは満州各地に畜産からハム・ソーセージづくりの工場を併せ持つ畜産試験場を10カ所開設した。成功を収めて意気揚々と1938年に函館へ帰ってきた。
ここに待ち受けていたのが、北海道庁の仕打ちだった。道庁は、北海道の畜産加工をラクレンの独占体制にすることにしたのだった。レイモンが道庁に呼ばれて出向くと、1通の書類が出された。大野町工場をラクレンに5万円(現在の4000万円程度)で売り渡せという契約書だった。強制買収である。しかも今後、ハム・ソーセージをつくってはいけないという項目もあった。
しかたなくレイモンは元町に小さな家を買い、妻と幼い娘と3人でひっそり暮らすことにした。やがて戦争になり、レイモン一家は身に覚えのない迫害や差別との戦いを余儀なくされ、それは1945年の日本敗戦まで続く。函館において、国の命令で奪われる資産、迫害などを経験してもなお、平和への運動を独自に続け、欧州統合を訴え続けた。1950年、レイモンは欧州統合を表す星をあしらった旗をデザインし提案した。それは現在、EUの旗のもとになっている。
工場は台所 いまに続くハム・ソーセージづくりの信念
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現在の函館カール・レイモン工場は、当時のこだわりや志が隅々まで行き渡っている。工場で働く従業員は、「作業は、レイモンさんの頃からなにも変わっていません。レイモンさんのハム・ソーセージづくりの信念をずっと守り続けています。私は地元の人間なのですが、レイモンさんのソーセージが大好きで、この工場で働きたいと思っていたので、幸せですね」と笑顔を見せる。
工場はいまも「食べ物は体にとって優しいものでなければいけない。母親が子どもにつくるような気持ちが大切です。だから工場は台所なんです」というレイモンの信念を守っているという。そして、本物にこだわったレイモンの製造方法のままに余計な添加物、保存料は一切使わず、そのために新鮮な肉が必要で北海道産の肉にこだわって製造しているそうだ。
個人がするような丁寧なつくり方を、企業として実現することで、より多くの人に届け、カール・レイモンの理想の実現を目指していく。そのブランドに共鳴した地域住民が、消費者として、あるいはつくり手として共に参画する。函館の地から、確かな仕事のありようが日本中に広がろうとしている。