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日本企業のサステナビリティが遅れている理由

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Andrew Winston
Image credit: Cory Schadt

最近、出張で東京を訪れ、多くの日本企業を訪問した。10社を超える大手多国籍企業のサステナビリティの専門家たちとの3時間に及ぶミーティングの終わりに、日本企業のサステナビリティに対する努力についての印象を尋ねられた。私の正直な答えは「困惑した」だった。(翻訳:梅原 洋陽)

個人的な限られた観点からでも、私の知っている一般的な企業のサステナビリティと、日本企業の重役たちがいう日本での物事の進め方とを比較することはできる。私は、日本の大企業は最先端であり、それと同時に遅れているという印象を持った。

この葛藤の主な理由は、日本企業がビジネスとその社会的役割を大局的、長期的、組織的に見る並外れた能力がある一方で、やや時代遅れの戦術で限定的な範囲でサステナビリティに取り組む姿勢があるからだろう。

このことは、どれだけ多くの日本企業が、長期的なサステナビリティ目標を2050年までに達成しようと(欧米企業がちょうど良いと感じる設定よりも10年は長いが)期待を込めて掲げているかを考えてみれば分かることだ。

良い例が、ソニーやトヨタ自動車だ。ソニーの掲げる「Road to Zero」は2050年までに環境負荷ゼロを目指すものだ。また、トヨタ自動車の「環境チャレンジ2050」が、製品や工場に関する環境構想を打ち出した上に、自然と調和した循環型社会を構築することも付け加えた点からもよく分かるだろう。

私の日本滞在中、以前は馴染みのなかった会社についても知ることとなった。125億規模の消費財企業である花王は、エネルギー資源、廃棄材、製品の再設計などについて語ってくれた。しかし、私を驚かせたのは花王の企業理念である「花王ウェイ」だ。それは、こんな風に始まる。

「消費者・顧客の立場にたって、心をこめた『よきモノづくり』を行ない、世界の人々の喜びと満足のある豊かな生活文化を実現するとともに、社会のサステナビリティ(持続可能性)に貢献することを使命とします」

ユニリーバの「サステナブル・リビング・プラン」を除き、企業構想や企業戦略の中心にサステナビリティを据えることは、ほとんどの場合、ない。多くは(もし1つでもあれば、だが)見えにくい場所に組み込んでいる。

日本企業にとっては、壮大かつ長期的に考えることが風土的に適しているであろう。具体的な事例を挙げるとすれば、ますます多くの日本企業(とEU企業)が、企業目標の青写真として、SDGs(持続可能な開発目標)を尊重してきているということがある。アメリカの企業はこの点においては遅れをとっていると言える。

日本企業のサステナビリティに感じる違和感

しかしながら、日本の企業がサステナビリティに関して遅れをとっている非常に重大な領域が一つある。重役のトップたちは未だ、「企業の社会的責任」という観点のみからサステナビリティを語るが、欧米で見られるようなより広く、より影響力の強い形での扱いでは決してない。これは良識であり社会奉仕である。アメリカ企業が中核となる戦略課題へサステナビリティを落とし込んで考えていることとは異なり、日本企業のサステナビリティの扱い方には時代遅れの印象を持つ。

私が会った人々が、「日本では事情が違う」と強く主張した時でさえも、そのギャップは馴染みのあるものに映った。認識の違いの一部は、欧米のステークホルダーの圧力に関する誤認に基づいているかもしれない。例えば彼らは、「欧米の消費者がユニリーバのようなサステナビリティのけん引役に対してさえも問題の解決を強要するような環境とは違って、日本の消費者は製品の環境的、社会的側面については実はあまり関心を持っていない」と語った。もしくは、彼らは、投資家たちは短期的結果だけを求めているとでも言うだろう。

もちろん、ステークホルダーの圧力に違いはあるだろう。例えば、消費財製品企業から来た人々は、私が説明をした「クリーンラベル」運動は日本ではあまり活発ではないと言っていたし、私はどちらにせよ議論するだけのデータを保持していなかった。

しかしながら私は、オーガニックやパーソナルケアといったいくつかの製品を除けば、欧米の消費者も実はそんなに課題の推進に熱心ではない、ということを彼らに告げなければならなかった。実際、消費者に対する同様の不満を、米国の消費財企業から聞くこともあった。

また「ウォール街は分かってない」というフレーズも、欧米のサステナビリティ業界では当てはまらなくなりつつあるが、今でも耳にすることは何度もある。世界中の機関投資家たちは長期的課題については興味津々であるが、アナリストやヘッジファンド畑の連中は、そうでもないのである。

日本企業の20名の重役たちと、私の著書「ビッグピボット」(http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2232)の話、例えば巨大トレンドについて、発展するクリーン経済、ミレニアル世代の態度の変化、リスクとチャンス、企業の英雄たちについて共有させてもらったが、その対話は驚くほど身近なものだった。

サステナビリティ担当者は、市場において、また、社内においては尚更、困難に直面している。再度述べるが、企業の社会的責任だけを共通理念としていることが、彼らを脇に追いやることになっているのだ。

そのことは、私が目撃した日本文化に存在する控えめなアプローチを見れば分かる。日本人に、自分が成し遂げたことを自慢させるのは、本当に困難なのだから。

これらの企業は、我々が感じているより、また、自分たちの評価よりも多くのことを実行していると思われる。彼らは、企業の中での自分自身の価値をもっと主張する必要がありそうだ。

つまりは、突き詰めると、日本における企業のサステナビリティは、他のどこの地域とも同じであり――そしてまた、違うのである。

日本という国について

話題を少し軽いものに変えて、日本に滞在した外国人として持った印象を思いつくまま述べようと思う。 
ビジネスはフォーマルであり、ミーティングにおける序列は絶対である。しかし服装は思ったよりもカジュアルだ(ネクタイを締めている人は少ないし、半袖のワイシャツで大丈夫)。明らかに12年前に始まった「クールビズ」が功を奏しているからであろう。

人々は皆底なしに礼儀正しい。私は、スティクスの80年代の作品「ミスターロボット」の歌詞(「どもありがと、ミスターロボット」と繰り返す)以外には日本語能力ゼロの状態であったが、魚菜食主義者の私が文化や食べ物を求めて旅をしていても、信じられないほど皆助けてくれた。

日本人は規則を守る。どんなに道路が空いていても、青信号になるまで誰一人として道路を渡る者はいない。私が12年住んだニューヨークでは、車と車の間にほんの少しの隙間でもあれば皆歩いていくので、この日本の規則を守る習慣は私にとって拷問のようであった。

東京は私が今まで見た中で最も清潔な都市である。通りの多くはまるでディスニーランド版の日本の町のようであった。

日本人は衛生観念を真剣に持っている。人々は、おそらく細菌を撒き散らすような失礼なことをしないためにマスクをしている。また、近づいた時と離れる時にトイレが勝手に水を流してくれる(おそらくこれは資源の使い方としては最善ではないだろう)。また、私の滞在したホテルのトイレは、アポロ計画よりも優れたコンピューターで制御されていた。

全体的に、トイレから会議室まで、実に魅惑的で有意義な旅であった。